年譜と活動

八木重吉の年譜と文学活動

年齢居住地執筆活動と信仰/文学
1898(明治31)誕生2月9日、東京府南多摩郡堺村相原大戸(現在の東京都町田市相原町)に代々農業を営む八本家の次男として生まれる。
1904(明治37)6歳4月、相原尋常小学校大戸分校に入学。
1910(明治43)12歳4月、神奈川県津久井郡川尻村尋常小学校の高等科に進む。
1912(明治45、大正元年)14歳4月、神奈川県立鎌倉師範学校予科1年に入学。学内の「詩の会」に加わる。
この頃、日本メソジスト鎌貪教会に通い、タゴールの詩を愛読する。
1915(大正4)17歳
1917(大正7)19歳3月、鎌倉師範の本科第1部を卒業レ 4月、東京高等師範学校文科第3部英語科に入学。寮生活が始まる。
1918(大正8)20歳北村透谷「透谷全集jやワイルド「獄中記」を耽読。
この頃、同級生と小石川福音教会に通う。
1919(大正9)21歳2月、同級生の親友古田不二雄と死別。
秋、スペイン風邪にかかり、12月に肺炎を併発、神川駿河台の橋本病院に入院。
一時、かなりの重態に陥った。
3月2日、駒込基督曾で、富永徳麿牧師から洗礼を受ける。
同月、吉田不二雄遺稿集「一粒の麦」を刊行。
1920(大正9)22歳3ヵ月の入院生活ののち退院、堺村の自宅へ帰って療養する。
4月、本科3年に進級、池袋で下宿生活を始める。
「福音之研究」と題するノートを作り、「聖地物語」や旧約時代の研究をする。
多数の短歌を作る。それに混じって詩も書かれるようになる。
1921(大正10)23歳3月、島田とみと出会う。東京高等師範を卒業。 
4月、兵庫県立御影師範学校英語科教師として任地に赴く。
7月、陸軍の6週間現役兵として姫路市の歩兵第39聯隊に入営する。
1922(大正11)24歳1月、内藤卯三郎の仲立ちで島田とみと婚約。
7月19日結婚。御影町石屋川の借家で新しい生活始まる。
詩作が増える。
油絵を描く。
1923(大正12)25歳3月、御影町柳の借家に移る。
5月26日、長女桃子生まれる。
ジョン・キーツの詩を翻訳。
1924(大正13)26歳12月29日、長男陽二生まれる。6月、末日したタゴールの講演を神戸へ聴きに行く。
第1詩集「秋の瞳jを編み、原稿を加藤武雄のもとに送る。
「秋の瞳」{新潮社発売}刊行。
7月創刊された佐藤惣之釣主宰の「詩之家」同人となる。
1925(大正14)27歳3月、千葉県立東葛飾中学校英語科教師として転任する。この頃より草野心平と交友始まる。小文「聖書」を書く。
 「病床ノート」書き始める。
病床で第2詩集7貧しき信徒」の自選を行なう。
1926(大正15、昭和元年)28歳2月から風邪で病臥、3月、東洋内科医院で診察を受け、結核第2期と診断される。
5月、神奈川県茅ヶ崎町の東洋内科医院の分院南湖院に入院。
7月、茅ケ崎町十間坂に家を借り、一家あげて移り自宅療養に入る。
10月、富永牧師が病床を見舞う。
1927(昭和2)29歳10月26日没 現東京都町田市相原町の八木家墓地へ埋葬される。
重吉の没後
1928(昭和3)家族は池袋に居を移し、とみは白木屋に勤めるなどして自力で2児の養育に専念する。2月、野菊社から「貧しき信徒」の自選を行う。
1940(昭和15)7月9日、陽二(15歳)聖学院中学4年生で結核のために死去。
1941(昭和16)とみ、茅ケ崎に移って、南湖院の事務員として勤める。
1942(昭和17)
1944(昭和19)とみ、神奈川県鎌倉市の歌人吉野秀雄宅に入って、家事や子女の世話にあたるようになる。7月、山雅房から「八木重吉詩集」 加藤武雄他編
1947(昭和22)とみ(42歳)、吉野秀雄(45歳)と再婚。
1948(昭和23)3月、創元選書版「八木重吉詩集」(草野心平編)
刊行。
1950(昭和25)3月、新教出版社から「神を呼ぼう」(鈴木俊郎編)
刊行
1958(昭和33)4月、彌主書房から「定本八木重吉詩集」(吉野秀
雄他編)刊行。
同月、詩「素朴な琴」を刻んだ詩碑が生家の屋敷内に完成、除幕式が行われる。
12月、新教出版社より「貧しき信徒(信仰詩集)」(佐古純一郎編集)刊行。
1959(昭和34)12月、彌生書房から、「花と空と祈り(新資料)」(吉野登美子他編)刊行。
1967(昭和42)7月13日、吉野秀雄死去
1982(昭和57)9月~12月、筑摩書房から、「八木重吉全集全3巻」
 (草野心平他編)刊行。

※こちらの年譜は、事前にいのちのことば社様からの引用とご協力をいただいております。